タコスと餡子 メキシコー大多喜交流の原点

タコスと餡子 メキシコー大多喜交流の原点

大多喜城へ向かう坂道の名前がメキシコ通り、結構きつい坂道ですが、景色も良く、アステカ風、マヤ風のレリーフやタイルがあるので、ゆっくり散歩できる道です。

前々から、大多喜がメキシコと色々交流していることは知っていましたが、その原点を知らなかったので、本を探してみました。

自分的には、大多喜と聞けば、津知屋の最中十万石、メキシコと言えば、タコス・・・なんですね。

甘いものと辛いものが、一体いつ出会って、交流を始めたのか、その始まりを書いた本が「ドン・ロドリゴ」に関するものです。

ドン・ロドリゴの幸運―日本・メキシコ交流の始まり

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1609年6月下旬、スペイン人のドン・ロドリゴこと、ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコは、マニラからメキシコへ帰国途中、乗った船が難破して、岩和田村(現在の御宿町)の浜に漂着します。

タイル

当時、フィリピンもメキシコも、スペイン領だったんですね。メキシコは、ノビスパニアと呼ばれていました。

恐竜の名前みたいです。

浜に漂着したドン・ロドリゴ達を、岩和田村の人々が助けます。人口よりも多い乗り組員を介抱し、大多喜藩主、本多忠朝に連絡、忠朝はロドリゴと面会しました。

影

その後、ドン・ロドリゴは、江戸城で二代将軍徳川秀忠に接見、駿府城に出向き、徳川家康とも接見します。

何故、ロドリゴが、大御所の家康と面会できたのか??

ロドリゴが、ヨーロッパ繁栄の基礎となった、ボリビアのポトシ銀山の所長を務めたことを、家康が知っていたためということですが、ロドリゴが遭難する前年、ロドリゴからの書簡が、秀忠、家康へ届いていたということです。

名前に聞き覚えがあったために、家康は接見したんでしょう。

記念碑

家康と接見後、ロドリゴは京都や大阪も見物し、1610年8月浦賀港から、三浦安針が建造した船で出港、9月には無事アカプルコに到着しました。

書籍には、ロドリゴが家康に提案した貿易の条件の内容など、なかなか興味深いものが含まれています。

ロドリゴの日本に対する態度の裏には、1588年、無敵艦隊がイギリス軍に敗れて、イギリスが台頭、1609年にはオランダが独立、スペインは次第に国力が低下していったため、日本との貿易を独占したいという思惑もあったでしょう。

記念碑

しかし、徳川幕府の鎖国政策強化で、貿易の夢はかなわず、ロドリゴと日本の話しはしばらく忘れ去られていましたが、明治時代、岩倉具視が欧米訪問の際にこの話を聞いて、みんなに知られるようになりました。

また、明治21年に締結した日墨修好通商条約は、明治に締結された条約の中でも珍しく平等条約であり、日本とメキシコがこの頃から友好関係にあったためだと言われています。

なんだか、硬い話しになりましたが、良いことをすれば、良いことで返ってくるということですね。

ちなみに、ドン・ロドリゴが遭難した時に乗っていた船、サン・フランシスコ号のマストが、御宿町、岩の井で有名な造り酒屋、岩瀬酒造の母屋の梁 に使われているそうです。

岩瀬家は、当時、岩和田の名主だったという名家。

予断ですが、岩瀬酒造の故岩瀬家禎之氏は、有名なアマチュア写真家で、ベスト判や二眼レフで岩和田の海女さんたちの日常を撮影した海女の群像 岩瀬禎之写真集[新装改訂版]: 千葉岩和田1931-1964などの写真集を出されています。

岩瀬酒造言えば、岩の井ですが、他にも色々美味しいお酒あります。岩瀬酒造のホームページはこちら。