私の知らない千葉県の歴史

私の知らない千葉県の歴史

先日、久しぶりに本屋の中を歩き回り、面白い本はないかなと物色していたら、あなたの知らない千葉県の歴史 (歴史新書)というタイトルの本が目にとまり、すぐ手に取って買ってきました。

もともと、千葉県へは仕事の都合で引っ越してきて、そのまま居ついてしまっただけなので、歴史に関してはあまり詳しくは知りません。

それで、ちょっと勉強しようかなと思ったわけです。

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でも、中身を見ないでこのあなたの知らない千葉県の歴史 (歴史新書)を買おうとしたのではなく、ちょっとページを開いてみると、里見氏の名前が目にとまり、読んでみたいと思ったのです。

しめ縄

安房の国に居を構えていた里見氏は、あの有名な「南総里見八犬伝」のモデルとなった大名です。この本には、南総里見八犬伝の時代背景となったモチーフや里見氏改易の謎について書かれてあり、大変興味深いものでした。

里見氏の祖は新田義重で、いつ里見氏が房総に来て、どうやって安房と上総を掌握したのかは、正確にはわからないそうです。

しかし、江戸時代初頭までは、確かに里見家は安房の国の大名であったし、その里見家の名前を一気に有名にしたのが曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」でした。

八犬士のモデルが、里見家の忠臣であったことは言い伝えられていますが、何故モデルとなったのかを語るには、里見氏の改易について知る必要があるようです。

墓石

里見氏は、戦国時代には上総南部と安房を掌握しましたが、豊臣秀吉によって上総の領地は取り上げられ、安房一国の大名となりました。

関ヶ原では東軍に味方し、家の存続を図った里見氏ですが、徳川家臣の内紛が原因で、それに連座して処分され、安房から伯耆に転封されることになりました。

最後の里見家当主の里見忠義は伯耆倉吉で病死し、庶子の男子がいたにも関わらず、家は断絶となり、里見忠義の死に際して、家臣八名が殉死し、八名の戒名に賢の字が含まれていたため、八賢士と呼ばれたそうです。

里見氏は悲運の大名と言えるでしょう、徳川は里見氏を房総から追い出す機会を伺っていたようなので、内紛があってもなくても、改易されていたと思います。

空

里見氏の改易のいきさつや殉死については、江戸時代の市民にも知られていたのでしょう。曲亭馬琴は、一度も訪問したことがない安房の国を舞台に、「南総里見八犬伝」を書き上げたわけですから、その想像力はものすごいものです。

曲亭こと滝沢馬琴という人は、武家の出身ですが放蕩が過ぎて家を追い出され、しかも梅毒に罹っていたため、鼻が変形していたそうです。

一時、山東京伝の口利きで、蔦谷重三郎宅に寄宿していました。馬琴がいた頃の蔦谷重三郎宅には、京伝の他、太田南畝、歌麿、十返舎一九など、当時の文化人が多く集まり、ちょっとしたサロンになっていたようです。

馬琴には、よいうわさも悪いうわさもあり、実際はどのような性格だったのか分かりませんが、好き嫌いは、かなりはっきりしていたようです。

でも、馬琴のおかげで、里見氏の名前は歴史に埋もれるて忘れられることはありませんでした。

悲運の大名里見氏と曲亭馬琴、今も読み続けられている名物語の生みの親たちですね。

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